オタク文化は同時に教育の一端でもあるのですよ。

私は心身ともに強いほうではないんで、物理的にどうにかできなかったことも、心理的にどうにもならなかったときもあります。あれは6月辺りでしたかね、滑り込みで入った会社で病んでいたころです。あの頃はニコ動と仕事と睡眠以外、特に何もやってなった、そんな、誰が見ても人生損をしている生活をしていました。ニコ動は面白い動画もたくさんありますけど、それ見てるだけなのは前向きではありませんからね、かつて現場系だった自分からしてみれば。そんな折、mixiでいつものように日記を書きました。ある意味自分を奮い立たせるためで、「まぁ全部肯定してやることもできんが、がんばれよ」くらいのコメントを期待しながら。その日記には、期待通りのコメントがちゃんとついていたと思います。「思います」なのは、この日記がすでに記録として残っていないからです。記録に残っていないということは、自分で消したということ。自分の言葉は独りよがりで浅はかだったのです。そして浅はかな日記を削除したということも、浅はかな行動だったのです。今なら落ち着いて、滑り込みでかつてアレルギーで退職した業界を再び、しかも社員として受けるということ自体私にとっては正しくなかったということも、そして、前後の行動も、私として正しくなかったということが分かります。「間違っていた」と言わないのは、それで合っていた可能性がある人もいるからです。アレルギーもなく、お客に笑顔で料理を出せる人にとっては、天職ですから。話が少しそれましたが、たとえ「間違っていた」としても、過去は戻せません。私には、3ヶ月で社員を辞めたという経歴が、ずっとついて回ります。辞める前に、会社の人は言ってました、「お前のような人間は採らない」と。すぐ辞めた経歴がある人を採るのは、その人がどんなによさそうでも、怖いことです。自分の会社もまた辞められてしまうかもしれないから。でも、私は辞めました。どっちに転がっても正しくなかったからです。それならば、自分を護ろう。やりたいことができるようにしよう。私は、一度しかない人生を仕事で終わらせることはできません。これはずっと変わらないでしょう。どっちにしても私が悪いのだから、どっちを選んでも相手には不利益という、稀な状況。そうなったのも、就職活動というものに対して、ぼやけたまま過ごしていた自分の過去に問題があったからです。今だからこうやって、自分の悪いところが言えます。開き直りではなく、ひとつの分析として。しかしながら、当時の自分は、自分が悪かったと言えず、「人のために辞めます」と言ってしまったのです。こんなことを言ったら、「それは違うよ」と「言ってくれる」人があることでしょう。実際にあったのですから。でも、そのときの自分はその人の言葉を受け止めることが出来なかった。だから、「それは違うよと言ってもらえた」ときの日記は削除されているのです。今ならそのときの自分が正しくなかったことが、きちんと分かります。そして偶然か運命かはてまた最後のチャンスか、「言ってくれた」人の日記にも、ちゃんとこことリンクする内容が書かれていました。だから、もし会えたら言おうと思います。今まで通りに「最近どうですか?」なんて他愛もない声をかけて、ありがとうの言葉と、そしてごめんなさいの一言を。怖いです。やっぱり表向きの一見にこやかな付き合いで済めばそれでいいと思ってしまっていた輩なので、余計にこじれてしまうととか考えると、やっぱりいえなくなる気持ちが強くなります。でも、失敗しなければ、人は成長しない。すぐれていたはずの人がどん底に落ちるのは、失敗の経験が少ない、もしくは無いからです。仮にこじれてしまっても、そこから得るものがあれば、こじれてしまった人にありがとうと言えるくらいじゃないと、これから先の辛いこと・苦しいことには、きっと耐えられないでしょう。今度こそ、機会が生じたときに、ちゃんと言います。他愛もない一言と、ありがとうの言葉と、そして、ごめんなさいの一言を。ブログや日記にコメントするのも一つの手ではあるんでしょうが、ここはほかならぬ自分のために、直接話します。多分、コメントでのやり取りは、表向きが強まるでしょうから。そして、また会ったとき、今度はちゃんと進路を固めて、前へ進んでいる自分を見せられるよう、一歩一歩進んでいきます。まずは、いろんなことを教えてくれたオタク文化という教材にありがとう。これからもよろしくです。